2018年




ーーー2/6−−− 愛しいボール盤


 
昨年の秋に中古のボール盤を購入した。その数日前に、なじみの機械屋が研磨済みの刃物を届けに来た。しばらく工房内を眺めた後、「大竹さん、ボール盤が無いね。中古で安いのがあるけど要らないかい?」と言った。即座にその申し出に応じた。

 開業以来、ボール盤を置いたことがなかった。ボール盤が無い木工所というのも珍しいだろう。垂直に穴をあける作業は、電気ドリルを卓上スタンドに取り付けて行ってきた。大口径の穴を開ける場合は、角ノミ盤にドリル刃をセットして使った。それで30年近くしのいできたのだから、別にボール盤が無くても良いと言えなくもない。

 しかしやはりボール盤が欲しいという願いは、長年持ち続けてきた。穴開けという単純な作業ではあるが、専用のちゃんとした道具を使いたいという気持ちがあったからである。ところが、上に述べたように、長年それ無しで済ませてきたので、なかなか思い切れなかった。もちろん新品を買うつもりは無い。中古で手頃な品があれば手に入れたいという、漠然とした思いを持ちつつ、年月が過ぎて行った。

 ボール盤の搬入は大変な作業だった。クレーン車を手配する余裕が無いので、機械屋と二人で、人力で運び入れた。木工機械としては小さく軽い方だが、鋼鉄で出来ているからそれなりに重い。工房入り口の階段を上げるのが一苦労だった。そういう力作業をするたびに、どういうわけかエジプトのピラミッドのことを思い出す。

 無事に運び入れ終わったボール盤を見て、幸せな気持ちになった。長年思い続けた事が実現したと言うと大袈裟だが、童心に返ったような、無邪気な喜びがあった。単純で分かりやすい機能を持った道具には、そういう魅力があるのだろうか。

 そのままでは作業テーブルの高さが低いので、角材を重ねて枕を作り、その上に乗せた。すると、椅子に座って作業をするのに丁度良い高さとなった。手を掛けたことで、ますます愛着が沸いた。

 さて、ボール盤の有用性はどうか。私の仕事では、それほど頻繁に出番があるわけではないが、使えばやはり便利であった。特に太い径のドリルを使う場合や、長いストロークを要する場合などは、専用機械の本領を発揮する。

 最近になって、また一つ改善した。開ける穴の深さを設定するストッパーをネジで固定する仕組みになっているのだが、むき出しのナットを締めるだけだった。手で回すだけでは弱いので、いちいちスパナで締めていた。それがちょっと不満だった。そこで、木のハンドルを取り付けた。中心に六角形の穴を開けて、ナットにはめ込んだのである。これで操作性が向上した。スパナは見ながらでないと操作できないが、ハンドルなら手探りで扱える。こうして手を加えて使い易くなると、ますます愛着が沸く。

 このボール盤を積極的に利用して、これまであまり作らなかった作品にも、今後は取り組んでみようなどと思っている。例えば丸ホゾ脚の椅子とか。




ーーー2/13−−− 旅先での再発見


 10年ほど前になるか、仕事の関係で東北の山奥の集落へ出かけた。夜は、民家に泊めてもらった。家の主はお婆さんで、部外者の一行を親切にもてなしてくれた。素朴な人情に溢れていて、美しい日本を再発見したような気がした。

 夕食が終わった頃、近所の五十がらみの夫婦が訪ねてきた。田舎だから、普段からこういう交流が盛んなようであった。座敷に上がり、我々も加わって、いろいろ話をした。山村にまつわる伝統文化のような話題が出たとき、私は手帳を出して話の内容をメモし出した。すると旦那のほうが「なんでこんなことを書くずら」と言った。「おめえは新聞記者か?」などとも言った。その顔つきに、軽い警戒心のようなものが見え、これも田舎らしいと感じた。

 主のお婆さんは、茶を入れたり、つまみを出したり、甲斐甲斐しく立ち働いていた。そして、会話にも楽しげに参加した。和やかな歓談のひと時といった感じであった。

 だいぶ過ごしてから、その夫婦は帰って行った。すると、それまでニコニコ穏やかだったお婆さんの態度が一変した。「あの夫婦はろくでなしだ」とか「悪いことしかやらん」とか、悪口雑言が次々と飛び出した。先ほどまでの親しげな様子との、あまりに大きな落差に、私は驚いた。話を合わせる事もできず、ただ黙って聞くしかなかった。

 美しい日本の再発見から、暗い村社会の再発見へと突き落とされたような出来事であった。




ーーー2/20−−− 過酷な臓器


 
テレビ番組の中で、「胃は直接外界に接する、もっとも過酷な条件の臓器である」という意見があった。そういう見方もあるかも知れないが、私は違うと思った。私の考えでは、それは肺である。

 木工業を始めて数年経った頃、咳や痰が出るようになった。そして、しょっちゅう風邪をひくようになった。月に二回ほどのペースで医者に通った。医者から「あなたはよく風邪をひくね」と言われたくらいである。

 ある日、ついに血痰が出た。この時は驚いた。すぐに掛かり付けの医院へ行った。名前を呼ばれ、診察室へ入るとき、最悪の事態を想定して鳥肌が立った。診察した結果は、特に重大なことではなく、ただの風邪とのことだった。

 ただの風邪で血痰が出るとは、素人ながら思えなかった。そこで、松本の総合病院へ行った。いろいろ検査をした挙句、気管支炎が進行していて、肺の機能がいちじるしく低下していると言われた。レントゲンの画像では、肺のかなりの部分が白くなっていた。風邪を引き易かったのも、気管支の炎症が原因だったとのこと。

 さて、前置きが長くなったが、本題に入る。一連の検査の中に、内視鏡検査があった。口から内視鏡を飲み込み、気管支から肺にかけて、内部を観るのである。内視鏡の先端にはノズルがあり、医者が操作をするとそこから麻酔薬が噴霧される仕組みだと説明された。麻酔を噴霧して暫く間を置き、効いたころを見計らって内視鏡を先に進める。それを繰り返しながら、徐々に奥へと進んでいく。

 途中で、ちょっとタイミングを外したようである。麻酔が効く前に内視鏡を進めてしまったのだろう。突如、激しくむせこんだ。それはもう、尋常のむせ方ではなかった。胸の周りの筋肉と腹筋を総動員したような、断末魔の叫びのようなむせ方だった。医者は「あっ、失礼」と軽く言った。別に実害のある現象ではなかったようである。異物の進入を感知した肺が、それを排除する行動に出ただけの事であると説明された。医者が麻酔の操作をすると、肺は穏やかになり、検査は続行された。

 塵や埃ではなく、内視鏡が進入しているのである。むせたところで排出できるはずもない。それでも肺は、なんとかしようと、それこそ全力を尽くすのである。私は、自分の肺ながら、そのけなげさにある種の感動を覚えた。

 肺は外気を直接取り込む。そして入れるものをえり好みする事はできない。入れるのを拒もうとして息を止めたとしても、せいぜい一分程度しかもたない。それに比べて胃は、ラクである。嫌なものは食べなければ良いし、一日くらい食べなくても問題は無い。調子が悪くなれば、休ませる事もできるのである。

 だから私は、最も過酷な条件に晒されているのは、肺だと思うのである。

 ところで、そのときの肺の病について、その後の経緯について少し触れておこう。

 医者からは、このまま放っておけば、10年以内に酸素マスク無しでは暮らせなくなると言われた。タバコは吸っていなかったが、もし吸えば自殺行為だと言われた。結局その病院に、一ヶ月ほど入院した。退院してからも月に一回のペースで通い、薬をもらって飲み続けた。一年以上通ってから、全快を告げられた。

 気管支炎の原因は、体質的なものもあるが、木工作業の埃が引き金になったのだと言われた。それ以来、埃が舞う作業の際には、必ずマスクを着用することにしている。肺の調子は良くなり、今では風邪を引くことが無くなった。




ーーー2/27−−− ワンマン旅客機


 米国で国内線の旅客機を利用したときのこと。そこは田舎の空港だった。航空会社も聞いたことが無い名前だった。

 空港ビルの待合室で搭乗のアナウンスが流れたので、ゲートに向かった。チケットを確認する係りは、中年の男性だった。ゲートを通ってビルの外へ出て、駐機場まで移動するバスに乗った。乗客が乗り込んだ後、最後に入ってきた運転手は、先ほどのチケット係だった。

 バスが飛行機のところに着くと、バスの運転手が降りて乗客をタラップまで案内した。飛行機は、いかにもローカル線といった感じの、小型のものだった。機内に入り、座席に着いて、窓の外を見ると、例の男が機体の周囲を歩き回り、外観検査のようなことをしていた。この男は、本当は整備士であり、ついでにチケット係りやバスの運転手を兼務しているのかと思った。

 しばらくすると、男は機内に入り、タラップを引き込んで畳み、ドアを閉めた。そして客席の前方に立って、フライトの説明をした。他にキャビン・アテンダントは居なかった。つまりこの男が唯一の客室乗務員だった。

 説明が終わると、男は前方に進んで、操縦席に座った。なんと、パイロットだったのである。男の操縦で機は離陸し、つつがなく目的地までの飛行を終えた。

 










→Topへもどる